溶け込む家

古い、といっても100年前でもない「昭和」の面影の残っている地域でのこと。施主の希望は「周りの街並みに溶け込むような家」だった。

最近の傾向とは違っていて少し戸惑った。というのも、建築家に頼む人の多くは個性的で、ちょっとその辺にはないような家を求める傾向が強いと感じていたからだ。

その敷地の周りを散策してみると、昭和40~50年代に建てられた瓦屋根とモルタル吹付仕上げ、ブロンズ色のアルミサッシの入った家が立ち並んでいた。戦後の高度成長期の家だ。戦前の名残といえるのは、土壁の露出した蔵や渋く銀色に風化した板張りの作業小屋くらいだった。

元々目立つ家はあまり好きではない私だが、仕事柄、その時代の流行には関心を持たざるを得ない。今は黒が流行ってきているなとか、扉のデザインはこっちが人気とか。しかし、改めてこういう要望を受けると、「溶け込むってどういうことなんだろう?」と考えてみるきっかけになった。

家が集まって集落を作るときに、昔だったら地元で手に入るもので作るしかなかった。例えば、ヒノキや杉の柱とか、茅葺き屋根の茅とか、土壁や瓦の土は、馬か牛か人の力で運べる範囲からしか調達できなかった。古い集落はこのような地理的な理由によって、同じような素材で作られたし、デザインもその土地の気候風土に適応するために、似通った形になったことは、ごく自然なことだ。
こんな風に特に美しくしようと作られたわけではないけれど、古い集落は美しいとか、風景に溶け込んでいる、と言われることが多い。

一方、東京郊外の山の斜面を削った造成地に並び立つ、同じデザインの家々を見ても、集落として周りに溶け込むという感じもなく、むしろそこにまとまって存在しているのが不自然で味気ないという感じがしなくもない。

似通った形の家が立ち並んでいる点では、古い瓦屋根の集落も、造成地の画一的な建売住宅群も同じなのに、まるで反対の感覚を覚えるのだから面白い。

違うといえば、瓦屋根が焼き物であり、土から作られているのに対して、建売の屋根は石油系の材料であったり、モルタルの壁が左官屋さんの手作業で作られたのに対して、建売の壁は工場で作られたパネルだったりするところかもしれない。

昭和の職人さんがどんなに均一に仕上げたつもりでも、自然の素材を手で形にしていたので、どうしても歪みや揺らぎがでてしまう。瓦にしても、機械で成形して焼いているにしても、炎のムラが出る。それに比べて、パネル材などは、正確にコピーのように作られるので、均一という点ではこれ以上のものはないが、歪みや揺らぎは感じられない。

人間の眼は不思議なもので、均質なものよりも、歪みのあるものに反応してしまうらしい。普段、家の設計の打合せをしていて、デジタルで作る図面で説明するとポカーンとしてしまう施主さんが多いのに、手描きのよれよれ線で描いたお絵描き図面には目を輝かせてくれる。(下手すぎて面白がってくれているのかもしれないけど。)

そういえば最近映画館で「オオカミの家」というストップモーションのアニメーション作品を観たとき、なぜだかその歪みに満ちた動きに目が奪われてしまった。ストップモーションアニメという膨大な手作業の繰り返しが理屈抜きに人の眼を楽しませ、釘付けにしてしまう。これも手作業で生まれてくる歪みとか揺らぎを気持ちよく感じているのかもしれない。

ところで話は戻って、周りに溶け込むような家という希望を叶えるべく、屋根の形や建物の高さを考えに考えて工夫してみた。少しだけれど手の痕跡が見えるように。こうして建物は完成したけれど、「溶け込む家」というテーマをまだ消化しきれずに、でも忘れられずにひっかかっているので、まだ考え続けてみようと思う。